#010 保線区員の仕事、杉さんが実態を暴露
保線作業員、救急隊員が線路内に立ち入っての作業中に、事故に遭遇することは、件数としては決して多くはありませんが、内容は見逃すことはできません。
Wikipediaによれば、線路内での作業中の事故は1964年以降7件報告されています。
おそらくそれらは事故の総件数から見れば氷山の一角に過ぎないものかもしれません。
しかし、それらの多くは複数の死亡者が出ており、その重大さ、悲惨さが報告書の文面からも伝わってきます。
そしてすべての原因が、連絡の不徹底、監視員・乗務員の不注意等のヒューマンエラーでありました。
- 1964年11月23日 東海道新幹線磐田市内、保線作業員5名死亡
- 1969年02月13日 伯備線上石見―生山間、保線作業員6名死傷
- 1999年02月21日 山手貨物線大崎―恵比寿間、保線作業員5名死亡
- 1985年09月11日 東北新幹線新花巻―盛岡間死者2名重軽傷者6名
- 2002年11月06日 東海道本線塚本―尼崎間、死者2名負傷1名、線路内2件の人身事故、内1件は救急隊員に対する二次災害
- 2006年01月24日 伯備線武庫駅付近、保線作業員3名死亡2名負傷
- 2013年10月01日 函館本線特急スーパー北斗が特別監査期間中に工事区間を時速35㎞超過して走行
発生件数は決して多くはありませんが、一件当たりの被害者数が甚大であり、事故の状況も凄惨を極めるものが目立ちました。
実は、筆者自身も学生時代にアルバイトで保線作業を経験したことがあります。
1970年代、今から50年以上昔の話です
東海道本線の熱海駅や小田原駅での夜間の作業で、目の前を貨物列車が猛スピードで通過してゆくものでした。
推定で時速100㎞もしくは120㎞は出ていたように思います。
眠気と疲労で足元がふらつきながら、通過してゆく列車の風圧で何度も吹き飛ばされそうになったものでした。
今となっては時効なので言ってしまいますが、あの時の貨物列車の機関士さんの何人かは、酩酊状態の上、居眠り運転をしていたのではないかと思っています。
1982年に名古屋駅、1984年に西明石駅で特急列車の飲酒運転事故が連続して発生していましたが、それらより10年少々前のことです。
さらには旅客列車ではなく貨物列車、自然に考えて飲酒運転があってもおかしくありません。
恐怖が昨日のことのように甦ってきます。
列車を運転する側の人たちには、いつ、どこで、何の作業をしているかは知らされているとは思いますが、昼夜を問わず、それらの配慮が列車の運行に反映されていたとは、正直言って考えにくいものでした。
また、保線作業と言っても、筆者が携わっていたのは、当時の国鉄でも、他の電鉄会社でもなく、二次三次もしくはそれ以下の下請け会社であったわけでして、言いにくいことがですが、管理も極めて杜撰でありました。
夜間の作業の前に熱燗二本、猛暑の昼食時に生ビール大ジョッキ一杯なんていうことは日常茶飯にあったものでした。
ただ、念のために申し上げますが、すべての保線作業員の方が仕業前に飲酒されていたとは、決して思ってはいません。はい!
主な作業は駅のプラットホームや車両基地、保線区内の作業場や通路の舗装工事でした。 10tダンプで運ばれてきたアスファルト合材を、老朽化して凸凹になった路面に敷き詰めてゆく作業です。 われわれアルバイトの若手はネコと呼ばれる一輪車にアスファルト合材を積んで、材料の置き場から作業現場までを往復する作業を担当します。
当時の国鉄東海道本線や山手線京浜東北線が主な現場で、移動距離はホームの端から端の300 mというところでしょうか。
前述したとおり、熱海駅や小田原駅で搬送作業を行っているそばで貨物列車が猛スピードで通過してゆくのですが、あのときの恐ろしさは筆舌に尽くせないものでした。
夜勤の実働は2.5時間、ただし休み時間なしです。
山手線、京浜東北線などのいわゆる国電といわれる路線は終電が1時を過ぎ始発が4時半ですが、線路を横断する搬送がある場合は終電が出た直後は許されますが、始発の1時間前には作業を終えなければなりません。 従って実働時間は深夜1時から3時半の2.5時間ということになります。
府中刑務所帰り、さすらいのギャンブラー、顔に刀で切りつけられた傷跡のある人、結婚歴12回離婚歴12回、肩や腕に入れ墨、なぜかそんな怖いおじさんたちにいじくり回されて7年間、高校1年生から大学4年生までを働きと通すことができました。
当時、筆者の人間形成の中で
おいしい仕事-その① 高校生の分際で芸者遊び?!
熱海までゆくと早朝4時に作業が終了しても出発が5時、当時は大渋滞に巻き込まれると東京の大田区まで帰ってくるのが昼近くになることがあります。
そこでやむを得ず泊まり込みになります。 高度経済成長からバブルの時代です、経費は使いたい放題です。
熱海や湯河原で夜間工事があった場合、湯河原駅前の旅館に宿泊するのが常だったのですが、温泉で一風呂浴びて開宴です。 やや年増の芸者さんやコンパニオンさんが2~3名いたような気がします。 小生の場合17歳、他のおじさん達とは違い、見るからにもいいとこのボンボンな訳ですからやたらお姐さん達にはたいそう可愛がっていただきました。
朝から酒盛り舟盛り、当時はまだ流行り出したばかりのカラオケに乗じて大盛り上がりの高校2年生の春休みでした。
おいしい仕事-その②
おいしい仕事-その③ 深夜のドライブで日当10,000円
運転免許を取得してから、小型ダンプの運転を任されるようになりました。
小規模な工事の場合、小型ダンプに乗ってプラントにアスファルト合材を調達にゆきます。
ところがアスファルト合材を作るプラントは近くにはなく、さらにすべてのプラントが24時間営業しているとは限りません。
夜間での作業の場合、自ずと調達先は遠隔地になります。
ただ、裏を返せば車を運転する身にとってはこれほどありがたいことはありません。
夜中で道路が空いています。 東名高速道路を使って東京から厚木までを往復。
居眠り運転だけ注意していれば、後は気楽に深夜放送を聞きながら深夜のドライブを満喫できているわけです。
当時よく聴いた歌謡曲で太田裕美さんの 「木綿のハンカチーフ」、山口百恵さんの 「一夏の経験」 なんていう曲が忘れられません。
現場に到着後、待ちくたびれて痺れを切らせていたおじさんたちが即刻作業開始。
ダンプを上げてアスファルト合材を下ろしきってしてしまえば筆者は着手をするまでもなく、すべての作業は完了です。
言われるまでもなく酒屋さんの自販機の前に車を止めて缶ビールもしくはワンカップ大関を調達して帰途につきます。
おじさん達はほろ酔いで上機嫌、10分もしないうちに大鼾です。
そんなこんなの昭和50年代でしたが、当時の日当は確か10,000円だったような気がします、ハイ!
おいしい仕事-その④ 濡れ手に粟の残土処理費用
領収証を出さない残土業者、その監督が悪友の岩田!
舗装工事を請け負うと残土が発生します。 当時は工事現場で発生した残土を、現在の江東区有明地区が夢の島と呼ばれていた埋め立て地に投棄に行っていました。 今日では考えられないことですが、残土回収業者はなぜか優越的な地位に乗じて領収証を出さないのが悪しき慣習になっていました。
ただ我々アルバイトの運転手は投棄場所に出発する度に親方から現金2,000円を預かります。
投棄場所で残土処理業者に預かった2,000円を渡しますが、領収証は出してもらえません。
それでも事情をよく知る親方は、特に追求することもなくその場をた。
ところがある日、捨て場でばったり出くわしたのが小中学校を通して親友だった岩田直行が捨て場の監督、責任者をやっていて残土料金はすべてお目こぼしにしてくれました。
当時は道路の渋滞があり、品川駅前の現場から夢の島まで一日で走れて5往復でしたが2,000円×5往復×3日で30,000円、濡れ手に粟でした。親方にそのことを白状したら、「構わないから受け取っておけ!」と軽くあしらわれました。
親方としてはその程度のはした金、返されても処理に困ったことなのでしょう。