青春18きっぷの旅-①

あの頃にタイムスリップしてみませんか!

こんにちは!

杉さんです。

あなたは若い頃にどんなところを旅されましたか?

函館本線羊蹄山山麓、五能線鯵ヶ沢、肥薩線大畑(おこば)、小海線清里、

蒸気機関車が走っていませんでしたか?

今、あんなにもくもくと煙を吐き出す物体があったら、やれ地球温暖化だとかCO2対策だとかで社会問題になることでしょうね。

それよりも、みんながびっくりして消防車が飛んでくるかもしれませんよね。

宿泊場所はユースホステルではなかったですか?

夜のミーティングでよく歌った歌で、「山賊の唄」なるものを憶えています。

もう一つ、どこのユースでも必ず歌った歌、「旅の終わり」がありました。

今でも思い出すとジンとくるものがあります。

そして、何よりの楽しみだったのが素敵な異性との出会いではなかったでしょうか?

あなただって絶対そうに違いないですよね・・・・

椅子取りゲームでどうやって愛しの彼女の隣をゲットするか、虎視眈々と狙ったものでした。

さらには、九州や北海道のように、一つの地域を旅行していると、ここかしこで再会、再々会があるもので、それは実に楽しいものでした。

実は、こんなことがあったのです

早稲田高等学院1年生の時に、四国を旅行した時のことです。

昭和47年春、連合赤軍あさま山荘事件の直後、話しは今から51年前に遡ります。

高知市内のユースで知り合った、生涯忘れることのできない、超弩級の美人で3歳年上の明治大学文学部1年生のM.Nさんのことです。

女優の土屋大鳳さんに顔つきは似ていましたが土屋さんよりもう少しおとなしくした感じの女性でした。

彼女と私は明治と早稲田、良きライバルということで意気投合して、お互いに惹きつけあうところがあるのか、とにかく仲良くしていただいた、というより、とても可愛がっていただいたものでした。

瞳がとりわけきれいで、透き通るような桜色の素肌の持ち主の女性でした。

笑顔からこぼれる白い歯がとても綺麗で、ご家族の愛情を一心に受けて育ったのか、真っ直ぐで博愛に満ちた性格、天から二物も三物も与えられたような、それはすべてにおいて筆舌に尽くせないほどの美しさを湛えた方でした。

当時の早稲田大学は今よりも女子学生の人数が少なく、校風もバンカラだとか野暮だとか言われていましたが、そのような中でただ一人だけ異彩を放つスーパースターが卒業生の中にいたのですが、その方が吉永小百合さんでした。

今思えばM.Nさんも同じようなバンカラな校風の明治大学の中で、吉永小百合さんに匹敵するほどの注目を浴びていたのではないでしょうか。

その彼女とは後ろ髪をひかれる思いのまま、国鉄高知駅で一度はお別れしたのですが、その翌々日のことでした。

3月の彼岸を過ぎ、四国にも桜の開花の知らせが出始める頃でしたが、あいにくの雨。

しかも、みぞれ混じりの中、土讃線高松行きの列車が大歩危小歩危方面から阿波池田駅に到着した時のことでした。

寒さと空腹をこらえながら、湯気の立ちこめる構内のうどん屋さんに駆け込んだその時のことです。

まだ脳裏から離れることのなかった愛しのマドンナにバッタリ再会したのです。

こちらから声をかけるやいなや、折からの寒さも手伝ってなのか、桜色の頬をさらに紅潮させながら、満面の笑顔で答えていただいたものでした。

お互いに両手を取り合って、人目もはばからず再開を喜びあった時の、あの手のひらの温もりが昨日のことのように思い出されます。

仮に、抱擁があってもよかったのかもしれません・・・・。

殴られても蹴られても構わないから抱きしめてしまえばよかった、後悔は先に立ちません。

その時隣りにいたのが、彼女と途中から合流していたのでしょうか、長髪に無精髭、細面で関西弁丸出しの大学生らしき男性でした。

当時流行のヒッピースタイルというやつです。

正直言って、私の一番嫌いなタイプでした。

私は高校1年生ながら、

「こんな薄汚ねえ、乞食みたいな奴、お似合いじゃねえよ、ムシムシ!

年下の僕と早明連合で楽しくルンルン気分で行こうよ!」

そんなことを考えながらヒッピー氏のほうをジロジロ見ていたら、鬼の形相で睨み返されました。

おそらく、彼も私と同じことを考えていたことは疑う余地もありません。

「このクソガキ、さっさと消えて失せろよ!」

そんな思いがひしひしと伝わってきました。

まさに一触即発、刃傷沙汰一歩手前の状況でした。

結局、マドンナとは阿波池田駅でお別れして51年の歳月が過ぎたままです。

今でも都内の丸亀製麺に入ると湯気の向こうに彼女がいるのではないか、70歳になった今でも変わらぬ美貌のままでいるに違い、ついついあたりを見回してしまう未練タラタラの私です。

話は急に変わりますが、その時まで乗っていた土讃線の列車はブドウ色の客車列車であったことまでは憶えているのですが、牽引していた機関車が何であったのか、正確に思い出せません。

当時、四国の国鉄からは蒸気機関車はなくなっていたのですが、電化はされていません。

非電化区間では一般的にDD51が牽引するところなのですが、どうも違うような気がしました。

ひょっとしたら当時の国鉄の「地域限定版」DF50だったのかもしれません。

東京銀座にある天賞堂から販売されている同車両のHOゲージのモデルは、オレンジ色がとてもきれいで色鮮やかなのですが、それに引き換え実物は、ディーゼルエンジンの黒煙と、雪解けの土埃にまみれて、とても汚かったような記憶があります。

さらには蒸気機関車と聞き間違うほどの騒音を発していたことを思い出しました。

あ、マニアックな話になって申し訳ありませんでした。

そんな話題を肴にして仲間とお酒を飲んでいたら、あっという間に夜が明けていた、そんなことはないでしょうか?

いずれにせよ、思い出を巡らせたら人それぞれ、枚挙に暇がないことだと思います。

それで、何の話でしたっけ?

そうそう、もう一つ肝心なことを忘れていました。

切符は何を使われていましたか? ということです。

周遊券ですよね。

北海道ワイド周遊券、九州ワイド周遊券、四国ワイド周遊券であるとかいろいろありました。

ミニ周遊券というものもありましたよね。

私が学校を卒業する昭和53年ごろ、北海道ワイドで20日間3万円、九州ワイドで2週間2万円ぐらいだったような気がします。

いずれにしても、旅行好きの我々にとって、周遊券というものは必需品であったわけですが、気が付いたらいつの間にか無くなっていました。

ご存知でしたか?

その周遊券に代わって出てきたものがこれからご紹介する「青春18きっぷ」というものです。

ご存知の方、すでにご愛用されている方も多くいらっしゃると思います。

ご夫婦や、気の通った仲間の方との旅行に考えていただいてはどうでしょうか?

ぜひご一読頂きだきたいと思います。

お気付きのこと、お教えいただけること、何でもお寄せ下さい。

お待ちしております。

それでは次回をお楽しみに。

2022年12月吉日

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です