#005 開くも地獄、開かぬも地獄!
大阪と横浜、二つの大火災を結びつけたのは「泣き別れ脱線」だった
こんにちは、杉さんです。
ここで取り上げる事故のいくつかは、戦後の国鉄五大事故と呼ばれるとても重大なものです。 技術開発や安全管理がまだ発展途上であり、かつ戦中戦後の混乱期でもあることで、今日では考えられないような稚拙で杜撰な原因のものばかりした。そして多くの犠牲者を出しました。
しかし、事故の断片を一つひとつ重ね合わせてゆくうちに、今までに聞くことのなかった言葉とともに、 航空機事故と似たさまざまな不思議な事実が浮かび上がってきました。
航空機の事故が短い期間に集中したように、鉄道の事故が同じ路線・場所で、同じ原因・現象でおきていることに気が付き始めたのはこれら鉄道事故の資料に目を通している頃からのことでした。
もちろん、それぞれの現象に因果関係を見出すことはとてもできるものではありませんが、気が付いたことを読者の皆様にお伝えするだけでも何らかのお役に立てればと思い書き記してみました。 お気づきのこと、ご指摘等あれば何なりとご教示願います。
1926年 (大正15年) 4月9日に桜木町駅構内で、「泣き別れ脱線事故」は起きていた?!
この事故は、被害者の人数すら残されていないほど、小規模な事故でしたが、昭和 15年の大阪西成線火災事故と、同じ桜木町駅構内で昭和26年に発生した火災事故に結びつくものとして見逃すことができないものでした。
桜木町駅下り線側ホームから5両編成で東京方面へ発車した電車は、上り線側に移行する際、ポイント故障により 「泣き別れ脱線」 が発生、前方3両が上り線、後方2両が下り線を走行しました。 その時、隣の横浜駅を発車して桜木町駅に入線しかけていた下り電車の運転士は急ブレーキをかけ、さらには衝突を避けるべく、逆行まで試みましたが間に合わず、2本の列車は衝突しました。
幸いにも衝突時の速度が遅かったため、大事には至らず、被害は最小限にとどめられたようです。
しかし残念なことに、この日の教訓は、のちの二つの大惨事に生かされることはありませんでした。
1940年 (昭和15年) 1月29日 西成線列車火災事故
国内屈指のテーマパークである大阪USJへの玄関口となる現在のJRゆめ咲線 (当時の鉄道省西成線) 安治川口駅構内で事故は発生しました。
軍需産業で賑わう沿線へ乗車率300%を超す超満員の乗客を輸送するため、列車は定刻よりも3分遅れて6時55分に安治川口駅を発車ました。
その直後に信号係員が列車の遅れに焦りを感じ、列車が通過仕切る前にポイントを切り替えたことにより、「泣別れ脱線」を引き起こしました。
まもなく列車はかたわらの電柱に激突、 脱線転覆流れ出した流れ出した燃料用ガソリンが引火して火災が発生しました。 折からの大阪湾から吹き寄せる強風に煽られ、瞬く間に転倒した車両は全焼しました。
車内に閉じ込められたまま避難することができなかった乗客ら189名が死亡、69名が重軽傷を負いました。
犠牲者数は、2005年4月25日の福知山線脱線転覆事故 、1991年5月14日の信楽高原鉄道線列車衝突事故を凌ぎ、記録の上では我が国の鉄道事故史上最悪のものとなりました(非公式の記録では1945年8月24日に発生した八高線多摩川橋梁正面衝突事故が最悪のものとも言われています)。
1946年 (昭和21年) 6月4日 中央線乗客転落突事故
中央線大久保駅・東中野駅間を走行中の上り東京行き列車のドアが外れ、乗客が神田川へ転落、3名が死亡しました。
事故の原因はドアが木製で老朽化しており、満員の乗客の圧力に耐えられなかったためと見られています。
事故後の対策として、外れ止めの金具を取付け、さらには恒久策としてドアを木製から鋼鉄製に交換しましたが、これらの対策が災いして5年後の桜木町駅の大惨事を招くことになりました。
1951年 (昭和26年) 4月24日 桜木町事故
現在のJR根岸線である 東海道本線支線 桜木町駅構内上り線で発生した火災事故です。 架線のたるみからパンタグラフより失火、木造車両が全焼しました。
ドア、窓が開かず、多くの乗客が車外へ逃げることもできず犠牲となりました。
事故の原因は電気工事員のミスから架線が切断され、入線してきた下り電車のパンタグラフとたるんだ架線が絡み合いショート、木造車体に引火し火災となりました。
結果として、死者106名、重軽傷者92名を出し、戦後国鉄5大事故の1つとされています。
【事故の原因は曖昧な言葉の伝達?】
ここで事故原因をもう少し掘り下げるために2人の当事者の会話に注目してみましょう。 1人は電気工事の責任者である保線係のAさん、もう1人は電車の運行を管理する信号係のBさんです。
2人の会話を分析してみましょう
保線係Aさん 「上りだけ止めてください! 下りは止めなくて結構です」
その時のAさんの解釈は、電線が切れている上りホームには電車を入れないでください、電線が切れていない下りホームには電車を入れてもかまいません。 そのように伝えたかったのです。
ところがBさんは、上り電車を止めてください、下り電車は止めなくて結構です、そのように解釈しました。
Bさんは列車の運行管理者という職務上、『上り』 とは桜木町から東京・横浜へ向かってゆく上り列車、 『下り』とは東京・横浜方面から桜木町から向かってくる下り列車ということで、それ以上でもそれ以下でもなかったのです。
持ち場立場の違う二人でこのような解釈の違いがあり、結果として歴史に残る大惨事を招いたことになりました。
あなたの身の回りにもこのような言葉のアヤというものがないものか、今一度振り返ってみてはいかがでしょうか?
1962年 (昭和37年) 5月3日 三河島事故
現在のJR常磐線三河島駅構内で発生した列車三重衝突事故であり、これも戦後国鉄五大事故の一つとして伝えられています。
三河島駅構内で、貨物線から進行方向右側の下り本線に進入しようとした水戸行き下り第287貨物列車が、赤信号を見落とし、脱線して下り本線上を塞ぎました。
その直後に同駅を4分遅れて出発した下り取出行きの電車が、線路上を塞いだ貨車に衝突し、先頭車と二両目の車両が脱線し、上り本線を塞ぎました。 脱線した電車の乗客は6年前の桜木町駅事故の教訓でから、非常用ドアコックを操作して車外へ避難しました。
隣駅である南千住駅を出発した取手発上野行き普通列車が、7分後その現場にさしかかり、高速のまま線路上を避難していた下り電車の乗客を次々と跳ね飛ばしながら、脱線事故車両に激突しました。 双方の先頭車両は大破して、一部の車両は高架線下の民家へ突っ込み、その結果として160名が死亡し107名が重軽傷を負いました。
事故の原因は下り287貨物列車の機関士による信号見落としと、南千住信号所への連絡が遅れたことにより、上り電車を止めることができなかったことが二次災害を誘発したものと見られています。
これらの5つ事故には共通性があった
お気づきの方もいらっしゃると思いますが、これらの事故だけでも、それぞれに結びつく三つの共通性があるのです。
- 桜木町駅構内で発生した
1926年 桜木町横浜間衝突事故
1951年 桜木町火災事故
- 泣き別れ脱線が原因
1926年 桜木町横浜間衝突事故
1940年 西成線火災事故
- ドアが開いたことによる・開かなかったことによる発生または拡大
1946年 中央線大久保・東中野間乗客転落事故—ドアが開いてしまった
1962年 三河島事故--ドアが開いてしまった
1940年 西成線火災事故—ドアが開かなかった
1951年 桜木町火災事故—ドアが開かなかった
ところが、他の事案に視野を広げるとさらに意外な事実に気が付きました。
さらに不可解な共通性があった
ここに示すのはほんの一握りの偶然かもしれませんがこんな共通性もありました。
- 常磐線で発生した、
1962年 三河島事故
D51-651号機関車が牽引する列車が事故をおこした
1943年 土浦事故
1949年 下山事件
- 中央総武線で発生した、駅で停車中の列車に追突した、オリンピックイヤーに発生した、この3つの不思議な共通性を持つ事故は次の6件です。
1946年 大久保・東中野間転落
1964年 東中野駅追突
1968年 御茶ノ水駅追突
1972年 船橋駅追突
1980年 東中野駅追突
1988年 東中野駅追突 詳細は下表の通りです。
これだけの共通性があっても、それぞれの事故には何の因果関係もありません。
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