#009 こんなのどかなローカル線で何が?
八高線多摩川橋梁の悲劇
終戦の日からわずか9日後の昭和20年8月24日、まだ戦争が終わったことすら知らない人が大勢いる中、混乱に拍車をかけるように台風が関東地方を襲いました。 通信網が閉ざされ、東京郊外の八王子から群馬県の高崎に向かう八高線でも、今日であれば言うまでもなく運休になるところでしょう。 それでも人々の生活を支えなくてはなりません。 その日も始発から無理を押し通して列車を走らせることになりました。
そんな中、このローカル線で悲劇が起こりました。
通勤通学客や戦地から引き揚げてきた復員兵、疎開先から帰宅途上の子供たちで満員の列車が多摩川の橋梁上で正面衝突しました。
公式発表では死者105名、重軽傷者63名と言われていますが、橋の上から列車の外へ投げ出されて濁流にのまれ、さらには40㎞下流の東京湾まで流された人さえいたと思われています。 一説によれば犠牲者数は200名を超える、日本の鉄道事故史上最悪のものとも言われています。
どのような事故だったのか、以下に当時の状況を書き記します。
8月24日は前々日から台風の影響で、全線単線の八高線はタブレットによる通票閉塞が使えず、やむを得ず各駅の駅員がタブレットの代役を行う指導方式による通票閉塞を実施していました。
ここ八王子駅から一つ目の小宮駅で、当初予定されていたダイヤは
①6時05分に東飯能行きの下り7051単機回送車
②7時40分に下り第3旅客列車
③7時40分に上り第4旅客列車を発車させることになっていて
そのための通票手配を行いました。
因みに①の単機回送車は東飯能駅で折り返して、③の第4旅客列車を牽引して小宮駅に戻る予定になっています。
5時20分
小宮駅駅長Aさんは駅員のBさんに上り第4列車の指導者として乗務するため、隣駅の拝島駅まで移動を命じ、Bさんはそれに従いました。
5時30分
同じくAさんは駅員のCさんに下り第3列車の指導者として乗務するため、隣駅の八王子駅まで移動を命じ、Cさんはそれに従いました。
6時05分
小宮駅に下り回送の単機機関車が到着しました。 指導者として乗務していたとなりの八王子駅駅員Fさんが打ち合わせ票をA駅長に指し示しました。
その打ち合わせ票には 「第7051単機伝令者、第3列車指導者」 と書かれていました。それを見てA駅長はここにいる単機回送車の後に下り第3列車が続いて来ると思い込みました。 でもそれが何時何分なのかは未定のままなのでわかりません。 それでも駅長は下り第3列車は、続いて来るもの=すぐに来るもの=6時30分に来るもの (筆者推測) と勝手に解釈をしました。 ここで7時40分の上り第4列車との交換を待たず、下り第3列車を6時30分に発車させることを思いつきました。
A駅長は19歳の女性駅員Dさんに打ち合わせ票とメモを渡して、7051単機回送車に乗って拝島まで行き、拝島駅のE助役にそれらを手渡すように指示しました。
因みに、AさんからDさんに渡された打ち合わせ票には 「第7051単機適任者、第3列車指導者」、メモ用紙には 「運転順序、第7051単機、第3列車」 と書かれていました。
A駅長はDさんに十分な説明もせず、 「読めばわかるよ!」 の一言でお茶を濁してその場の説明責任をDさんに押し付けた格好です。
余談ではありますが、無責任な人、信用されない人の常套句として 「読めばわかるよ」 とか 「そのことは○○さんがよく知っているから彼に聞いて」 という具合にきちんと説明することをしない人に見られがちな態度ですが、あなたはどうお考えになりますか?
A駅長は先に拝島駅に徒歩で向かったBさんを機関車に便乗させるようにも指示をしました。
6時10分
女性駅員Dさんを乗せた7051単機回送車は拝島に向けて発車しました。 小宮駅から1.5㎞の場所でBさんを便乗させることができました。
6時25分
小宮駅駅員のBさんとDさんが便乗した7051単機回送車が拝島駅に到着しました。
二人はそれぞれの打ち合わせ票と運転順序が書かれたメモを拝島駅E助役に提示しました。
Bさん: 「打ち合わせ票、上り第4列車指導者」
Dさん: 「打ち合わせ票、第7051単機回送車適任者、下り第3列車指導者」及び 「運転順序第7051単機回送車、下り第3列車」
さらにDさんはこう説明を付け加えました 「A駅長からこのメモをE助役にお渡しするように言われました、読んでいただければお分かりになるそうです」
E助役は、二人から見せられた打ち合わせ票を読み、さらにはDさんの説明を聞いて言葉を失いました。
二人の駅員に課せられた、 「Bさんは上り第4列車の指導者」、 「Dさんは下り第3列車の指導者」ということは、上下2本の列車を同時に1本のレールの上を走らせることを意味しているのです。 さらに 「Dさんは下り第3列車の指導者」であるならば、いまこの場所にいるのではなく、小宮駅で八王子方面からくる第3列車を待機していなくてはならない、そう考えたからです。
これにはE助役も激高してしまい、普段からあまり好意的には思っていなかったA駅長に対しての罵詈雑言を、部下の面前で噴出させ、第3列車が先行することの理由を頭から否定してきました。 A駅長を庇う立場にあるB駅員ですら、E助役に同調する態度を示しました。
さらに同駅の信号掛や運転掛の職員も異口同音に第3列車の先行を肯定する人はいませんでした。
結局は、小宮駅長が書いた打ち合わせ票と運転順序は 「第3と第4の書き間違え」 という理由で一笑に付され、当初予定されていた順序が順当という結論に落ち着きました。 若い女性のD駅員はA駅長への説明をどうしたらいいかわからず、ただ途方に暮れてしまいました。
そのような中でアクシデントが発生しました。
第4列車の始発駅である東飯能駅で先ほど出発していった単機回送車の蒸気圧が上がらず、運転不能にお陥りました。 やむなく第4列車の運転は断念され後続の寄居発の第6列車に乗客を振り替えることになりました。
第4列車の乗客がそっくりそのまま第6列車に雪崩れ込んできます。
超満員の客車の窓やデッキから、乗客が振り落とされる、そのような心配もありましたが、その時はそんな心配をしている余裕などありません。
結局のところ小宮駅A駅長の独断による列車ダイヤの変更は、A駅長の 「メモの書き間違え」 と第4列車の運休という事実で拝島駅にいる人たちの頭の中から完全に消え去りました。
7時25分
上り第6列車が超満員の乗客を乗せて拝島駅に到着しました。
7時36分
上り第6列車が拝島駅を出発しました。
小宮駅駅員Bさんが指導者として乗務することになりました。
拝島駅にいる人たちの中には、小宮駅を下り第3列車がこちらに向かって出発しようと
していることなど誰も考えていません。
一方の小宮駅では6時30分に到着するであろうと思われていた下り第3列車は、6時05分の下り単機回送車の出発以降、何の音沙汰もなく今の時刻に至りました。
それもそのはずで、この下り第3列車に指導者として乗務するのは、この駅の駅員Cさんであり、Cさんが八王子駅まで辿り着かない限りこの列車を発車させることが許されません。 小宮駅を6時05分に徒歩で八王子駅に向かったCさんでしたが、嵐の中5㎞の道則を1時間で移動するは並大抵のことではありませんでした。 Cさんが7時05分に八王子駅に着いたとして、それから点呼、乗務の引継ぎをして10分で出発というのはかなり無理をした仕事だったはずです。
それでも下り第3列車は7時15分に八王子駅を出発しました。
7時35分
下り第3列車が小宮駅に到着しました。
小宮駅駅長AさんがCさんに、引き続き拝島までの指導者としての乗務を指示しました。
Cさんは指示に従いました。
7時38分
下り第3列車が小宮駅を出発しました。
A駅長も指導者のC駅員も、上り列車は拝島駅より手前で足止めされていると思っています。
7時40分
多摩川橋梁上で下り第3列車と上り第6列車は正面衝突しました
【杉さんの一言:この事故について考えた事】
この事故の原因について考えた時、まず真っ先に思ったのは今日の常識では考えられない事故だということです。
台風の影響で線路や鉄橋が流されたり、走っている列車が強風に煽られて脱線したり転覆したりとかは、過去の実例を見ても容易に考えられたはずです。 そのような中で列車の運行を強行することが本当に正しい判断だったのでしょうか。
また通信網や信号系統が不通となってしまい、どのようにして運行管理をしてゆこうとしたのか、甚だ疑問に感じます。
確かに戦後の復興、生活基盤の立て直しを最優先する大命題は動かしようがなかったにせよ、もう少し何とかならなかったのか、というのは戦中戦後の時代を知らない人間のエゴというものなのでしょうか?
その議論は取り敢えずのところは棚の上に置かせていただいて、A駅長が取った独断の行動が気になります。 前述した通り、下り第3列車は小宮駅に6時30分に到着するものと予想されましたが、実際には7時35分に到着しています。
この1時間5分のズレは何なのでしょうか?
不慮のアクシデントによるものであれば 「仕方のない」 で済まされるかもしれません。でも、元々の予定として第3列車の指導者には小宮駅のC駅員が予定されていたこと、同駅員が八王子駅まで移動するには徒歩以外にはなかったことを考慮するとどうしても下り単機回送車の後に、下り第3列車が 「すぐに来る」=「6時30分に来る」 (筆者の建てた仮説) というのはありえない話だと思うのですが、あなたはどのようにお考え機なりますか?
ここでまた 「認知不協和の理論」 が出てきます。
A駅長としては
・下り第3列車が6時30分に到着する。
・上り第4列車が7時40分に到着して下り第3列車と交換する。
・それまで第3列車は満員の乗客を乗せたまま、この駅に1時間10分停車し続ける。
・自分の駅に長時間にわたって超満員の列車を停車させたくない。
・だから下り第3列車が6時30分に来たらさっさと出発させよう。
そのようにA駅長が考えたと筆者は推測をしましたが考えすぎでしょうか?
因みに、下り第3列車がすぐに来る、6時30分 (筆者推測) に来るという根拠はどの資料を読んでも見当たりません。 むしろ、7時40分にならなければ来ない、という根拠のほうが明確に存在すると考えたのですが如何なものでしょうか?
裁判の結果でも、A駅長には実刑の禁固8カ月、E助役には執行猶予期付きの禁固6カ月と二人の判決のあいだには差が出ましが、両者の責任の重さからすれば妥当な結果だったように思えます。
この事故後に発生した信楽高原鉄道での列車正面衝突事故、福井県内でおきた京福電鉄による2件の正面衝突事故以来、事故の件数は減少の傾向にあるように見られます。 絶対という言葉がないとないでしょうが、日本の鉄道において 「正面衝突事故」 と言われるものは、2000年12月17日に発生した京福電鉄越前本線事故を最後に根絶したと言える日が来てもらいたいものです。